江戸中期以降の大相撲は特に神道の影響が強く、力士の土俵入りの際に柏手をうち、横綱が注連縄を巻くようになったのは、相撲の宗家とされた吉田司家の許可に基づくものである。東京での本場所前々日には東京都墨田区の野見宿禰神社に日本相撲協会の幹部、審判部の幹部や相撲茶屋関係者が出席して、出雲大社教の神官によって神事が執り行われる。
土俵祭
土俵祭とは、本場所の前日には立行司が祭主となって行なう祭事である。介添えの行司が清祓の祝詞をあげた後、祭主が神事を行い、方屋開口を軍配団扇を手にして言上する。この後、清めの太鼓として、呼び出し連が土俵を3周して式典が終わる。寛政3年(1791年)征夷大将軍・徳川家斉の上覧相撲の際に吉田追風が「方屋開」として始めたものである。
相撲場は明治中期まで女人禁制で、明治になるまで観戦することもできず、現在でも土俵上に女性が上るのを忌避している。
土俵
相撲の呼び方
「すもう」の呼び方は、古代の「すまひ」から「すまふ」になり、「すもう」に訛った。
「捔力」(『日本書紀』)、「角觝」(江戸時代において一部で使用)と表記され、いずれも読みはすもうであるが、漢字制限(当用漢字、常用漢字、教育漢字)により角力が別名でもある。
古代には手乞(てごい)とも呼ばれていたと言う説も有る。(手乞とは、相撲の別名とされ、相手の手を掴む事の意、または、素手で勝負をする事を意味する。)
大相撲を取る人は「力士」(りきし)や「相撲取り」といい、会話では「お相撲さん」とも呼ばれ、英語圏では「相撲レスラー」と呼ばれる事もある。
相撲の戦い方
競技の形態としては、直径4.55m(15尺)の円形または四角形をした土俵の中で廻しを締めた二人が組み合って(取り組み)勝ち負けを競う。土俵から出るか、地面に足の裏以外がついた場合、もしくは反則を行った場合、負けとなる。その判定は行司(アマチュアでは主審と呼ぶ)が行う。
相撲の取組は、伝統的に力士の年齢・身長・体重に関わらずに行われる。(無差別の戦い方)
相撲司家の吉田家の故実では、禁じ手制定以前の相撲の戦い方について「相撲の古法は、突く・殴る・蹴るの三手である」と伝えられている。
普通は以下のような流れになる。
仕切り
円形の土俵に入り、最初はやや離れて立ち、互いに顔を見合わせ、腰を落とし、仕切り線に拳をついて準備する。これを仕切りといい、立ち会いが成立するまで繰り返す。仕切りは何度行ってもよい(制限時間がある場合はその範囲で)し、繰り返さなくてもよい。
1928年(昭和3年)1月12日から日本放送協会のラジオ放送による大相撲中継がはじまった際、放送時間内に勝負を納めるため幕内10分、十両7分の制限時間設定とともに仕切り線が設けられた。現在の制限時間は幕内4分、十両3分である。
立合い
拳をついた状態から、互いに目を合わせ、両者同時に立ち上がり、ぶつかる。普通は正面からぶつかり合うものであるが、必ずしもそうしなくても良い。この、試合の始まりを立合いという。
立合いは、世界では見られない、日本独自の方法である。その開始は、両者の暗黙の合意のみで決まる。仕切りを繰り返すうちに、両者の気合いが乗り、共にその気になった瞬間に立ち上がるのが本来の形で、行司は一般のスポーツのように開始を宣言するのではなく、確認するだけである。ただし、現実には時間制限などが設けられる。
土俵に拳をつける立ち合いは江戸時代の元禄の大相撲力士の鏡山仲右衛門が始めたものが広まったものである。
仕切り線ができたことにより発達した。これ以前は当時の写真をみればわかるとおり、立会いの距離制限がなく頭と頭をつけた状態から開始されることも多かった。
勝ちの確定
勝ちが決まるのは次の場合である。
相手の足の裏以外を土俵の土に触れさせた場合。投げて背中が着いても、引っ張って掌が着いても、極端な場合には相手の髪の毛が着いてもその時点で相手の負けが決まる。
相手を土俵の外に出した場合。相手の体の一部が土俵の外の地面に着いた時点で勝ちが決まる。
日本の相撲以外の多くの相撲系の格闘技は、レスリングにおけるフォールのように、相手の背中が地面に着かないと勝ちにならない。また、試合場の外に出ることを反則としても即座に負けと認める例も少ない。この二点のために、相撲は勝負がつきやすいと共に、勝敗の行方がデリケートである。体重制を取らなくても勝負が成立する理由の一つもここにある。
相撲の攻め手
離れた状態から、ぶちかまし・喉輪・突っ張り・張り手・足払い等の攻め手を用いる立ち合いにより、優位な状況をつくる。
触れあった状態で押す。胸に手のひらを当てたり、まわしを握って押し出す。
廻しを掴んで引き寄せあう。両者が同じ側(右と左)で横より後ろの廻しを取り合った場合、互いの手が交差するが、その際内側にある手を下手、外側にある手を上手という。
急に後ろに引いたり、体を開くなどによって相手のバランスを崩す。
相撲においては、まず押すことを良しとする。まわしを取った手は引くが、その場合でも体全体としては常に前に出ることを心がける。「引かば押せ、押さば押せ(相手が引こうが押そうが押せ)」との言葉もある。実際には引き落としなど引く技もあるが、ほめられない。また引かれた場合も引かれる以上の早さで前に出ることで攻勢を取るのが良しとされる。
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決まり手
勝敗が決したとき、それがどのような技によるかを判断したものが決まり手である。当然様々な場合があるが、公式な決まり手として、投げ・掛け・反り・捻りを中心にしたものがある。かつては四十八手といわれたが、現在では大相撲協会が77の技名と技でない決まり手5(勇み足など)を決めており、そのどれかに分類される。
禁じ手
相撲の構え
日本古来から伝わる「手合」と呼ばれる相撲の構えが江戸時代中期まであったが、現在まで、その名残として「三段構え」が存在する。(手合と三段構えは世界中では見られない日本独自の構え)
力士が、「両手の手(拳)を土俵に付けてから立ち会う」事は、江戸時代中期の人物で紀伊出身の鏡山沖右衛門から始まった、これは、土俵を用いる相撲に適応し、徐々に浸透していった。
現在まで伝わっている相撲の「追っ付けの構え」は、相撲の攻防に適した構えである。
相撲の段級
日本相撲連盟が、段級位制を取っている。黒いまわしの着用が許されるのは初段以上である。
相撲の用語
あんことソップ
重量級の力士をあんこ、軽量の力士をソップと称する。軽量力士は一般的には不利とされるが、軽量ゆえの動きを生かした技で大型の上位力士を倒す取組は大きな見所となる。
相撲と日本人移民
相撲は、日本移民とともにブラジルに渡り、南アメリカにも持ち込まれた。
ブラジルでの最初の相撲大会は1914年8月31日、天長節を祝してサンパウロ州グアダバラ耕地で、開催された。福岡県、熊本県出身の30人余の若者が参加し、日本の本式の土俵で行われた。
1962年、アマチュアの普及発展を目的に、伯国相撲連盟が結成。1966年にはブラジル政府公認のスポーツ団体となった。相撲推定人口は約4000人、本部はサンパウロ市にある。
1983年、日本とブラジルの両相撲連盟が発起人となり国際相撲協議会を発足。
1985年にはパラグアイ、アルゼンチンの相撲連盟が同協議会に加盟する。
1986年、パラグアイへの日本人移民50周年記念事業として、全パ相撲大会が開催される。日本、ブラジル、アルゼンチン、パラグアイの4か国から選手が参加した。
日本からの遠征は1951年、全伯青年連盟の招聘による秀の山一行の渡伯を皮切りに、大相撲からアマチュア相撲の選抜選手が現在も遠征が続けられている。
大相撲
行司家
相撲司家の宗家吉田司家以外に、全国には行司家というものがあった。行司家は、五条家をはじめ、吉岡家、服部家、尺子家、一式家、岩井家、式守家、木村家、木瀬家、鏡山家、長瀬家など、その他多数存在した。
現在では、木村家と式守家のみが残っている。(行司も参照のこと。)
一般的に、吉田司家は、五条家の目代と、言われているが、一切そのようなことは無く、関係あるのは、二条家のみである。
事実、吉田家の19世 吉田追風が、寛政年間に、徳川幕府に提出した故実書に、五条家は家業牢人の輩の道中絵符人馬宿駅の帳面免許す、とあり又、木村庄之助の先祖書きにも旅行の節御由緒これあり、京都五条家より御絵符頂戴いたしきたり候としるされているように、相撲の宗家とは、云い難い。
相撲の今後の課題
大相撲に関しては、→大相撲を参照のこと。
相撲司家である「吉田家」や「五条家」に伝わる故実・伝書などの調査・研究。
各行司家に伝わる故実・伝書などの調査・研究。
吉田司家の相撲界への復帰。
相撲の指導者および後継者の更なる育成。
学校教育への相撲の導入。
防犯。